東北からの帰り、横浜で一泊。
新幹線の時間まで横浜・港の見える丘公園を散策しました。 映画のワンシーンのようなお家にウットリ。 OLYMPUS XAで撮りました。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 私は今夜から一週間、パソコンのない田舎で お正月を過ごします。 ブログを始めて3ヶ月、 新しい出会いに感謝の気持ちでいっぱいです。 見て下さった方。 読んで下さった方。 リンクを貼って下さった方。 そしてコメントを下さった方。 本当にありかとうございました。 私たちの心が大きく揺らいだ今年。 来年こそは希望に満ちた明るい年となりますように。 素敵な新年をお迎え下さいね。 ☆ ☆ ☆ にほんブログ村ランキングの応援に駆けつけてくれた ブログ「猫日和。キルト日和。」でおなじみのふーくん、 たくさんの「福」をありがとう。 ふーテトママさんにも感謝。 ふーくんバナーをクリックしていただけると嬉しいです。 ![]() 応援ありがとうございます。 ■
[PR]
▲
by ishikoro-b
| 2011-12-29 14:30
| 秋の旅
|
Comments(0)
日本列島を人間の体に例えたら東北は「胸」でしょう。
東北には日本人の心の風景がたくさん残っていました。 東北の旅の最後の目的地は被災地、陸前高田市でした。 被災地をただ見に行くなんて本当に不謹慎極まりないこと。 それは十分に解かっているつもりでしたが、 ここまで来て、東北を襲った現実を見なければ 旅の意味がないと思ったのでした。 自然災害の少ない地方都市に住んでいて、 ましてや想像力に乏しい私は、被災した人々の痛みさえ 慌ただしい日々の中でいつの間にか忘れてしまいます。 その場に立って感じること。 それが「忘れない」ことでした。 陸前高田市に着いたのは夕暮れ間近でした。 ![]() ![]() 一瞬で街が、大切な家族や友人の命が消えてしまう・・・ そんなことが本当にあるのでしょうか。 認めざるをえない現実の景色が目の前にありました。 瓦礫のひとつひとつが人の暮らしと共にあったと思うと、 言葉もなく、ただ呆然と佇むだけ。 ![]() 暮れなずむ空と重い空気の中、 瓦礫の山を数台のショベルカーが忙しく行ったり来たり。 大自然の脅威から再び立ち上がろうする人間の営みの なんて小さいこと。 ![]() ここに生活の場があったのだということを 骨組みだけになった建築物が物語ります。 ![]() ![]() 高田松原の道の駅まで行ってみましたが、 奇跡の一本松を見つけることは出来ませんでした。 ![]() ![]() 復興への遠い道程・・・ 雪の季節も復興を遅らせたりするのでしょう。 でも、でも、日本人の力を信じて、 賢治のように「みんなの本当の幸い」を 心から祈りたいと思いました。 ![]() カメラを構えるのも憚られる思いでしたが ブログで伝えなきゃ・・・って勇気を出しました。 不謹慎をどうぞお許し下さい。 震災の度に何もできない自分に歯痒さを感じます。 (ま、普段でも人の役に立つことなど殆どありませんが・・・) 私に出来ることは、 与えられた時間と環境を大切に、キチンと生ききること。 それがやがて復興に繋がることになるのかも・・・ そんなことを思いながら感慨深い東北の旅を 終えることができました。 長々とお付き合い下さいましてありがとうございます。 そしてSさん、 連れて行って下さって本当にありがとうございました。 ☆ ☆ ☆ ブログ「猫日和。キルト日和。」でおなじみのふーくんが にほんブログ村ランキングの応援に駆けつけてくれました。 ありがとう、ふーテトママさん、ふーくん。 ふーくんバナーをクリックしていただけると嬉しいです。 ![]() 応援ありがとうございます。 ■
[PR]
▲
by ishikoro-b
| 2011-12-27 15:41
| 秋の旅
|
Comments(0)
聖なる光がすべてのいのちに「ほんとうの幸い」を
もたらしますように。 ![]() 楽しいクリスマスをお過ごし下さいね。 ブログ「猫日和。キルト日和。」でおなじみのふーくんが にほんブログ村ランキングの応援に駆けつけてくれました。 ありがとう、ふーテトママさん、ふーくん。 ふーくんバナーをクリックしていただけると嬉しいです。 ![]() 応援ありがとうございます。 ■
[PR]
▲
by ishikoro-b
| 2011-12-24 15:49
| 日々是好日
|
Comments(2)
遠野物語の「遠野」もずっと前から訪ねてみたいところでした。
あまり時間はなかったのですが、ここまで来て カッパに会わずには帰れません。 河童の伝承地、カッパ淵を訪ねました。 駐車場から歩いて数分ほどの所に常堅寺というお寺がありました。 ![]() お寺の境内にあるお堂の前には、頭がお皿のように凹んでいる 「かっぱ狛犬」が鎮座して私たちを迎えてくれました。 ![]() その昔、寺が火事に見舞われたときカッパが 消火の手助けをしたことから、 かっぱ狛犬として祀られ寺を守っているのだとか。 ![]() 境内を抜けて小川に架かる小さな河童淵橋を 渡ったところがカッパの聖地、カッパ淵でした。 もっと山深い場所を想像していましたが 田園風景の中の鎮守の森を流れる小川といった感じ。 ![]() 周辺の木々が葉を落としているせいか思っていたより明るくて カッパがいる淵には見えないと思いながら近づくと、 カッパ釣りの仕掛けがあって、やっぱり何やらいそうな気配。 ![]() 遠野物語によると遠野のカッパの顔は赤いそうです。 遠野物語五八話から。 「小鳥瀬川の姥子渕の辺りに、新屋の家といふ家あり、 ある日渕へ馬を冷やしに行き、馬曳きの子は外へ遊びに 行きし間に、河童出でてその馬を引き込まんとし、 かへりて馬に引きずられて厩の前に来たり・・・・」 カッパは厩の馬槽に隠れていましたが、 家の人が馬槽が伏せてあるのを怪しんで、少しあけて見たら カッパの手が出て来て、村人は集まって殺すか赦すかを評議。 二度と悪戯をしないという固い約束をさせて カッパを放したのだというお話。 悪戯は困るけれど、どこか憎めないカッパのお話でした。 釣り糸の先にはカッパの大好物が。 ![]() 美男美女はカッパに引きずり込まれるそうです。私は安心。 ![]() カッパのミイラのような木株が。 ![]() カッパはお乳の神様でもあるそうです。 淵のほとりの小さな祠にはお乳の縫いぐるみが 奉納されていました。 祠の傍に陶製のカッパが座っていて足元のキュウリの 微笑ましいこと。 ![]() あたりはこのような田園地帯。 ![]() 「見えない」は「存在しない」ではないのですね。 いつの間にか失われた能力や遠い昔に忘れてきてしまったもの。 昔の人には異界に存在するものが見えたり聴こえたり していたのでしょう。 カッパ淵に佇みながらそんなことを考えました。 それはきっと、カッパに会えたってことなのかも知れません。 ![]() ブログ「猫日和。キルト日和。」でおなじみのふーくんが にほんブログ村ランキングの応援に駆けつけてくれました。 ありがとう、ふーテトママさん、ふーくん。 ふーくんバナーをクリックしていただけると嬉しいです。 ![]() 応援ありがとうございます。 ■
[PR]
▲
by ishikoro-b
| 2011-12-22 16:08
| 秋の旅
|
Comments(0)
宮沢賢治記念館は宝石箱のような記念館でした。
自筆原稿や大銀河系ドームや童話の幻灯などなど・・・ もっとずっと浸っていたい賢治ワールドがありました。 記念館で一番楽しみにしていたのが賢治愛用のチェロ。 妹トシのヴァイオリンと仲良く並んで展示してありました。 初めて「セロ弾きのゴーシュ」を読んたのは遠い昔。 セロ弾きに憧れたのも チェロの曲が好きになったのも 「セロ弾きのゴーシュ」がきっかけでした。 ![]() 小高い丘の斜面を見下ろすと木々の間に。 賢治が設計した南斜花壇が見えました。 ![]() 注文の多い料理店「山猫軒」はお土産屋さんでした。 ![]() ![]() 賢治記念館の坂道を下りたところに、こけしの工房がありました。 積まれているのはこけし用の材木。 ![]() 賢治ワールドに別れを告げて遠野へ向かう途中、 「銀河鉄道の夜」のモデルになったJR釜石線の 通称「めがね橋」を発見。 賢治が見送ってくれているかのようで感動でした。 ![]() ブログ「猫日和。キルト日和。」でおなじみのふーくんが にほんブログ村ランキングの応援に駆けつけてくれました。 ありがとう、ふーテトママさん、ふーくん。 ふーくんバナーをクリックしていただけると嬉しいです。 ![]() 応援ありがとうございます。 ■
[PR]
▲
by ishikoro-b
| 2011-12-20 15:45
| 秋の旅
|
Comments(2)
賢治の母イチの実家に賢治の産湯の井戸が残されていました。
![]() 賢治が生まれたのは1896年8月27日。 東北地方を大きな自然災害が襲った時期でした。 賢治が生まれる2ヶ月前には三陸大津波が三陸海岸を襲い、 生後5日目には陸羽大地震が起きて大災害をもたらしました。 母イチは生まれたばかりの賢治をかばうように 上体をおおい、念仏を唱えていたそうです。 ![]() 身照寺の静かな境内の裏に、賢治が眠っていました。 何も刻まれていないシンプルな賢治のお墓に合掌。 卒塔婆の戒名の中に「賢」の文字がありました。 ![]() 妹トシと同じ胸の病に倒れ、37歳で亡くなるまで 深い悲しみや苦しみを背負った人々のために 「ほんとうの幸い」を願い、書き行動した賢治。 賢治が生きていたら3.11以降の日本をどうみるのでしょう。 世の中がどんなに変っても、 賢治の根源的で普遍的な作品は、 ずっとこれからも希望の光を放つのだと 改めて感じました。 ブログ「猫日和。キルト日和。」でおなじみのふーくんが にほんブログ村ランキングの応援に駆けつけてくれました。 ありがとう、ふーテトママさん、ふーくん。 ふーくんバナーをクリックしていただけると嬉しいです。 ![]() 応援ありがとうございます。 ■
[PR]
▲
by ishikoro-b
| 2011-12-16 16:53
| 秋の旅
|
Comments(2)
羅須地人協会は花巻農業高等学校の敷地内、
松の林の陰にありました。 1926年、30歳の賢治は4年4ヶ月勤めた花巻農学校を退職、 農民と共に生きる決意をします。 宮沢家別宅だった花巻郊外の家で独居自炊の生活をはじめ、 私塾「羅須地人協会」を開きました。 「下ノ畑」の畑はどこ?・・・ないはずです。 賢治の死後、この建物は一度売却されたのだとか。 農学校の同窓会によって再び買い取られ、 ここ花巻農業高等学校の敷地内に移築復元されたのだそうです。 ![]() 建物の裏側に回ったら・・・見つけました。 黒板の「下ノ畑ニ居リマス 賢治」の文字。 文字が薄くなってきたら農業高校の生徒が 上からなぞるのだそうです。 賢治先生を慕う生徒たちの純粋な気持ちが 伝わってくるようでした。 賢治先生は留守。 入り口に「ご自由にお入り下さい」とあったので、 失礼して入れていただきました。 ![]() 室内は一階のみ公開されていて畳の部屋と板の間の教室の 二部屋ありました。 建物は窓を大きくとってあり明るくて開放的な印象。 でも実は、この建物は「羅須地人協会」の前には、 賢治の最高の理解者、妹トシの結核の療養に 使われていたのでした。 ![]() 「あめゆじゆとてちてけんじや」 妹が食べたいというあめゆきをとろうとして 曲がった鉄砲玉のようにみぞれの中に飛び出した賢治。 賢治の看病も虚しくトシは死んでしまいます。 最愛の人の死。 賢治は押し入れの中に頭を入れて号泣したといいます。 賢治の悲しみの深さが「永訣の朝」「無声慟哭」から 痛いほど伝わってきます。 そしてその悲しみは「銀河鉄道の夜」に結晶してゆくのでした。 「どこまでもどこまでも一緒に行こう」が泣けます。 叶わぬこととわかっているから、 一緒にいられる時間の尊さを思います。 ![]() 教室の間は「羅須地人協会」の名前からは 想像つかないほどの狭さでした。 「農民は芸術家でなければならない」と賢治は説きました。 農民の苦しい生活を明るいものにしようと夢みて、 人々を集めて農業や芸術の講義をしたり、 一緒に楽器の演奏やレコードを聴いていたそうです。 限りなくやさしい賢治の理想と農民たちの厳しい現実。 賢治の孤独な魂が、透き通った光と風の中で せわしく明滅しているかのようでした。 ![]() 教室は賢治先生を中心に三毛猫や窯猫や狸が座っていそうな 童話の中のイメージでした。 ![]() おなじみの賢治先生のシルエット。 ![]() ほんとうの幸いを掴もうとしたやさしい手。 ![]() ブログ「猫日和。キルト日和。」でおなじみのふーくんが にほんブログ村ランキングの応援に駆けつけてくれました。 ありがとう、ふーテトママさん、ふーくん。 ふーくんバナーをクリックしていただけると嬉しいです。 ![]() 応援ありがとうございます。 ■
[PR]
▲
by ishikoro-b
| 2011-12-15 21:55
| 秋の旅
|
Comments(0)
4年前にお星様になった私の相方は宮沢賢治の大ファンでした。
彼が読んだ賢治の本には赤い線が随所に引かれていて楽しいです。 貧乏絵描きだった彼は今から13年前の秋、 車でひとり、東北へスケッチ旅行に出かけました。 ある日「今、イギリス海岸にいる、気持ちいい朝だ」と 嬉しそうな声で電話をくれたことがありました。 数日後には賢治の記念切手が貼られた イギリス海岸の絵葉書も届いて 「賢治ワールドをいろいろ訪ねたけれど、イギリス海岸ほど ボクの心を揺さぶりませんでした」と書いてありました。 いつか彼が描いた東北をふたりで旅するのが夢でしたが、 それを待たず、ひとり銀河鉄道に乗って天国へ旅立ちました。 彼が見たイギリス海岸のことを想像して、 私はずっとイギリス海岸にあこがれていたのでした。 OLYMPUS XAで撮りました。 ![]() 花巻市郊外、猿ケ石川と北上川が合流するあたりの西岸を 賢治はイギリス海岸と呼んで愛し、 農学校の生徒を連れて度々ここを訪れていたそうです。 「なみはあをざめ 支流はそそぎ たしかにここは 修羅のなぎさ」と賢治はうたいました。 何時間でも浸っていたい景色です。 ![]() ![]() ![]() 上流にダムが出来てから、賢治が見た泥岩層は 今はめったに見られないそうです。 ![]() ![]() しばし賢治の生徒となってイギリス海岸に佇むと・・・ 水底の胡桃の実の化石や、大きな青じろい獣の骨がキラリと光り、 時空を超えて、「銀河鉄道の夜」の「プリオシン海岸」へも 行くことができるのでした。 ![]() 賢治の宇宙に少し近づけたような、 会いたい人に会えたような、切なくも幸せなひと時でした。 ![]() おまけの彼のスケッチです。 ![]() ブログ「猫日和。キルト日和。」でおなじみのふーくんが にほんブログ村ランキングの応援に駆けつけてくれました。 ありがとう、ふーテトママさん、ふーくん。 ふーくんバナーをクリックしていただけると嬉しいです。 ![]() 応援ありがとうございます。 ■
[PR]
▲
by ishikoro-b
| 2011-12-12 17:19
| 秋の旅
|
Comments(4)
乳頭温泉の余韻を楽しみながら2時間ほどで花巻へ。
もうすぐ今夜の宿、花巻温泉というあたりで 「高村山荘」の看板を見つけてしまいました。 高村光太郎と言えば「智恵子抄」に胸を熱くした 青春の頃をなつかしく思い出します。 まさかこんな所で高村光太郎に会えるなんて・・・ 駐車場から高村山荘への小径が花巻の第一歩となりました。 風は冷たいけれど賢治と光太郎を育んだ空、 あこがれの花巻です。 ![]() 高村山荘はまるで宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節 「野原ノ松ノ林ノ陰ノ小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ」の 小屋のようでした。 1945年、光太郎は東京のアトリエ兼自宅を空襲で失い、 賢治の縁で花巻の賢治の弟・清六の家に疎開します。 しかし、清六の家も戦災で消失したため、 このわずか畳三畳半ほどの粗末な小屋に移り住み、 農耕自炊の孤独な生活を始めるのでした。 光太郎62歳の時のことです。 この暮らしは7年にも及びました。 亡き智恵子の幻を追いながら、 多くの戦争協力詩を作ったことを自省する日々。 愛と美の結晶というべき詩の傑作はこの小屋で 生み出されたのです。 山荘は二度に渡って套屋が建てられ、二重に保護されていて、 村人たちの光太郎を敬慕する気持ちが伝わってきました。 ![]() 入り口に掲げられた草野心平の書「無得殿」 稼ぎがないものの住処という意味でしょうか。 ![]() 良寛を彷彿させるような、あまりに慎ましい光太郎の生活。 厳しいけれど、豊かな自然の祝福に感謝の気持ちを 忘れなかったことも、作品から伺い知ることができます。 展示された写真の中に、賢治の両親が山荘を訪問した時の、 微笑ましい3ショットの写真もありました。 ![]() 再現された日時計。壁に刻んだ時刻を糸影が伝う事で 時間を知ったのでしょう。 ![]() 小屋の東にある厠。 扉の明かり取りの「光」は光太郎自ら彫ったもの。 電気はもちろん小さな窓しかなかった小屋での彫像制作は 諦めざるをえなかったようです。 自身の名前でもあり「光」こそ全ての源。 「光」への思いが痛いほど伝わってきました。 ![]() 小屋の前の光太郎が耕した畑。 ![]() この小屋で詠まれた詩「案内」の 光太郎の智恵子への愛が胸を打ちます。 智恵子の死から10年、光太郎66歳の時の詩です。 「案内」 三畳あれば寝られますね。 これが小屋。 これが井戸。 山の水は山の空気のように美味。 あの畑が三畝、 今はキャベツの全盛です。 ここの疎林がヤツカの並木で、 小屋のまわりは栗と松。 坂を登るとここが見晴らし、 展望二十里南にひらけて 左が北上山系、 右が奥羽国境山脈、 まん中の平野を北上川が縦に流れて、 あの霞んでいる突き当りの辺が 金華山沖ということでせう。 智恵さん気に入りましたか、好きですか。 後ろの山つづきが毒が森。 そこにはカモシカも来るし熊も出ます。 智恵さん こういうところ好きでせう。 泉の落葉は、智恵子のちぎり絵のようでした。 ![]() 高村山荘から、光太郎のゆかりの品々や作品が展示されている 高村記念館への道。 ![]() 途中にあった「雪白く積めり」の詩碑。 山小屋で最初に詠まれた詩。これもいい詩でした。 冬の詩人、高村光太郎なのですね。 ![]() 高村光太郎の詩といえば、教科書にあった「道程」と 「智恵子抄」の一部くらいしか記憶にありませんでした。 旅から帰って読み返してみたら、なんと哀しく美しい。 「レモン哀歌」は賢治の「永訣の朝」と同様、 涙なしには読めませんでした。 詩の意味がよく理解できなかった若い頃。 年を重ねた今だからこそ、新たな発見に胸がときめきます。 宮沢賢治の才能を認め、世に紹介した高村光太郎。 私たちの旅も、光太郎が賢治の世界へ 誘ってくれているような気がしました。 ![]() ブログ「猫日和。キルト日和。」でおなじみのふーくんが にほんブログ村ランキングの応援に駆けつけてくれました。 ありがとう、ふーテトママさん、ふーくん。 ふーくんバナーをクリックしていただけると嬉しいです。 ![]() 応援ありがとうございます。 ■
[PR]
▲
by ishikoro-b
| 2011-12-10 14:49
| 秋の旅
|
Comments(2)
田沢湖の辰子像に別れを告げた私たちは、
友人お勧め、乳頭温泉郷の秘湯・鶴の湯温泉を目指しました。 乳頭山麓の雪道をまだかまだかと走って たどり着いた鶴の湯温泉は小さな集落のように見えました。 今にも降り出しそうな雲行きは景色をモノクロの世界に。 思い切ってモノクロモードで撮ってみました。 ![]() 乳頭温泉郷の中で最も歴史がある鶴の湯温泉はその昔 秋田藩主の湯治場だったとか。 かつて警護の者たちが詰めた茅葺き屋根の長屋「本陣」は 今は食事処や宿泊施設として、当時の佇まいのまま 残されていました。 ![]() ![]() ![]() 長屋の奥まったところに、旅番組などでおなじみの 露天風呂がありました。 写真の湯気が上がっているところです。 雪景色とちょっとブルーを感じさせるあこがれの白いお湯。 硫黄の匂いも「効くぅ」って感じ。 東屋の屋根から雪解け水がポタポタ。 足元の砂利の間から湧水がボコボコ。 景色も泉質も素晴らしい。 ホッコリいい気持ちに癒されました。 ![]() 「本陣」の向かいの長屋は宿泊施設でした。 鶴の湯温泉は予約をとるのがむずかしい人気の 温泉宿なのだそうです。 ちなみに私たちは日帰り入浴組でした。 ![]() ![]() ![]() 鶴の湯温泉のひなびた温泉風情は、 旅人の心をくすぐるものがありました。 次は宿泊を心に誓って、私たちは花巻に向ったのでした。 ![]() ブログ「猫日和。キルト日和。」でおなじみのふーくんが にほんブログ村ランキングの応援に駆けつけてくれました。 ありがとう、ふーテトママさん、ふーくん。 ふーくんバナーをクリックしていただけると嬉しいです。 ![]() 応援ありがとうございます。 ■
[PR]
▲
by ishikoro-b
| 2011-12-08 13:56
| 秋の旅
|
Comments(2)
|
最新の記事
カテゴリ
最新のコメント
リンク集
フォロー中のブログ
以前の記事
2018年 04月 2018年 03月 2018年 02月 2018年 01月 2017年 12月 2017年 11月 2017年 06月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
ファン申請 |
||
外部サイトRSS追加 |
||